脆さのパラドックス:
創作のプロセスの中で、とりわけヌードのモデルを構図として組み立てていくとき、私はひとつの魅力的な矛盾に巻き込まれていく。そこには、私自身の脆さと、被写体の身体的な露出とが絡み合う、繊細な駆け引きがある。
このパラドックスは、ある痛切な問いを立ち上がらせる——本当にいちばん多くをさらしているのは誰なのか。作家である私なのか、それともモデルたちなのか。
一方で、作家である私は、構図を組み立てることで、自分の内奥の思考や感情、経験をさらけ出している。たとえば、わずかな首の傾きが、かつて私が抱いた切望の感覚を反響させることがある。あるいは、光と影の交錯が、いま私がくぐり抜けている感情の地形そのものを映し出すこともある。私は自分の脆さを露わにし、言葉よりも直接的に感じられるやり方で、世界に“本当の自分”を垣間見せようとしている。内側の状態を視覚の言語へと翻訳するこの創作行為は、きわめて個人的で、親密な告白だ。 さらに、このヴィジョンを差し出すこと自体にも脆さがある。称賛されるかもしれないし、誤解されるかもしれない。批判されることだってあると知りながら、他者の視線と解釈の前に、自分の見たいものを、見せたいものを置くのだから。真に—— 他者を本当に見ること—— そして芸術のレンズを通して、その本質と形を掬い取ろうとすることは、それ自体が脆い行為だ。そこでは、自分自身の知覚や偏りと向き合わざるを得ない。
もう一方で、私が向き合うヌードのモデルたちは、身体として露出している。裸であり、脆さをまとっている。けれど彼らの露出は、あくまで肉体という輪郭の内側に収まっている。私が構図を通してさらすようなかたちで、内面そのもの——その瞬間の思考や、かすかな感情の揺れ——を、同じ自覚をもって露呈しているとは限らない。
あるいは、私のほうが見誤っているのだろうか。モデルたちは、肉体以上に、もっと深い何かをさらしているのではないか。私とカメラの前でヌードになることを選ぶというのは、ただ身体を見せることではない。そこには深い信頼——虚勢を脱いだまま見られることを受け入れる意志——があるのではないか。そこには、明け渡しがある。私たちが日常で身につけている鎧を、ふっと手放すような。 彼らが露わにしているのは別種の脆さなのかもしれない。自分自身への居心地のよさ、あるいは私の意図への信頼に根ざした脆さだ。こうした生の状態で「見られること」を許す行為は、ときに驚くほど勇敢であり、個人的な生活の中でさえ世界から隠しているような側面を、ふと表に引き出してしまう。 そしてその経験は、おそらく人によって大きく異なる。各々の来歴や、プロジェクトへの理解のしかたによって。
おそらく真実は、作家の脆さと、モデルたちの露出との相互作用の中にある。真の「露呈」は、モデルの身体性だけに宿るのではなく、スタジオの内側だけでなく、屋外で数日間にわたって続く撮影の広がりの中で生まれていく、感情的・心理的な結びつきにこそあるのかもしれない。そうした撮影はしばしば、単なる制作を超えて、生きた経験へと変わっていく。私たちは同じ場所で時間を過ごし、食卓を共にし、深い会話を交わしながらも、互いの境界線はきちんと尊重する。
こうした共有の場——開けた空の下であれ、一時的な隠れ家の中であれ——空気は、スタジオ特有の静かな集中から、近くにいながらも互いを思いやる「生活」の力学へと移り変わっていく。微細な調整や、言葉にならない合図が交わされるそのただ中で、信頼と理解、そして共有された人間性の深い感覚が花開く。 真の脆さが現れるのは、このプロセスの中だ。単に見られることからではなく、共に生き、共に創ることから。モデルたちが関わろうとし、空間だけでなく自分の時間や生活の一部まで分かち合う意志を差し出すとき、見る者/見られる者、そして「誰が何をさらしているのか」という境界はさらに曖昧になる。 被写体として立つはずのモデルでさえ、より大きな何かの一部になっていく——その協働の精神が、いっそう深い露出を可能にする。脆さ同士が折り重なる、繊細なダンス。その豊かさが、創作の結果をさらに厚く
最終的に、問題は「誰がより多くをさらしているのか」ではない。むしろ、作家とモデルの双方が、いかに脆さを分かち合っているかということだ。私たちは共に、それぞれ異なる側面を差し出し、信頼と共通の目的に根ざした共生的な結びつきを形づくっていく。その関係性は、確かな手応えのあるもの——人間のつながりと創造性の反映——を生み出す。作品そのものが、私たちが共有した開かれた状態の記録となり、それを生命として立ち上げた信頼と理解の視覚的な証言になる。目に見える露出の背後には、より深い、共有された啓示がある——関わったすべての人にとって、深く、そして長く響くものとして。

